MENU

アメリカ留学

目次

行き先選び

 繊維メーカーに勤務し入社6年目経った頃。社費での研究留学の機会が与えられました。1年間という期間以外には特に縛りはなかったので、ミネソタ大学ツインシティズ校の機械工学科の粒子工学研究所を行き先として自分で選びました。

 選んだ主な理由は以下のようなものです。
・私は入社以来、除塵や脱臭などのフィルタの商品開発を行っていましたが、その研究所は当時、フィルタおよび粒子関係の研究を世界で最も盛んに行っていました。
・その研究所は、当時競合関係にあった(とこちらは考えていた)3Mなどを含む、多くの企業とのフィルタ関係のコンソーシアムを主宰しており、有益な情報が得られるのではないか、と考えました。
・学生時代、化学(高分子、有機合成、生化学)を専攻していましたが、それと異なる機械工学科で、新たな知見や経験の取得が期待できました。

 また、大学があるツインシティズ(隣接する二大都市、ミネアポリスとセントポールを含むエリア)は、当時ファンだったプリンス(ミュージシャン)やF・スコット・フィッツジェラルド(作家)の出身地で、 そういう面でも興味がありました。

生活の立ち上げ

 9月の新学期前に、その研究所が主催する一週間ほどの講習会があり、その直前、日本の盆明けに渡米しました。渡米して最初に感じたのは「空が広い」。

 ミネソタ大学はミネソタ最大都市ミネアポリスの中心地近くにあり、バスなどの便もよい非常に便利な場所でした。最初は寮に入りましたが、9月からは大学から自転車かバスで通えるところにアパートを借りることにしました。

 アパートの契約もそうですが、銀行口座開設や電話、インターネットなどの契約など、生活の立ち上げは、スムーズには進みませんでした。例えば、アメリカで戸籍代わりのような重要な社会保障番号を取得する際に、最初の窓口で「あなたのビザでは発行できない」と言われ、そんなことはないと思ったのですが、違う窓口に並ぶと取得することができました。担当者によって対応、結果が変わることが多い、というがわかってきました。

 ただ、見るもの聞くもの新しく、刺激的な毎日でした。誘われて参加したミネソタ交響楽団の野外コンサートで、最後に夜空に上がる花火を見ながら、これから始まる楽しいアメリカ生活を実感しました。

ある日の出来事

 盆明けにアメリカ生活を開始してから3週間ほどが経ち、9/1にアパートに入居して生活がようやく安定してきたある日の出来事。

 研究室のカギをもらう必要があり、担当教官のP教授と事務室に行きました。ただ、雰囲気が何か変です。声を落として話している事務員の会話の断片から、buildingとか collapse、とか聞きとれたのを覚えています。P教授と「何かあったんですかね?」「どこかのビルがシステムダウンしたのかも。まあ、カギは渡したけど、研究室は吹き飛ばさないようにね!」というような会話を交わしてその場は別れたのですが、それが意図せず、本当のブラックジョークになっているとは気づきませんでした。

 ビルに飛行機が突っ込んだ、9/11の出来事でした。

混乱

 9/11に一変した世間の雰囲気。最初はアジア系犯人説もあり、混乱が始まりました。その後、テロの再発への懸念や中東系の人に対する報復、郵便物に付着した白い粉(炭そ菌)による無差別殺傷などもあり、社会の混乱がどんどん増していき、街中に国旗が掲揚され「戦時下」の様相を帯びていきました。

 ただ、最初に感じた個人的な恐怖は、「せっかくアメリカに来たのに、このまま日本に呼び戻されるのではないか」ということでした。しかし、同時テロ多発テロ発生後、すぐ、会社でアメリカでの航空機移動が禁止になり、私に、帰国するために飛行機に乗るように言える人がいなかったとのことで、そのままアメリカにいることができました。

 生活で一番の問題は、テロの犯人の一人がミネソタの留学生だったため、「留学生に、IDとなる運転免許証を取らせない」という意見が出たことです。日本で発行した国際運転免許だけでは厳密には米国で長期間運転できず、また、運転免許がないと自動車保険が巨額になるので、実質的に運転することができません。
 元々、入国時に自動車免許センターのストで免許が取得できておらず、テロ後に免許センターに行くと、上記の理由で受験を拒否されました。そこで、別の免許センターに自転車を走らせると、そこでは受験OK。ペーパーテストと実車試験を受け、事なきを得ました。社会保障番号取得の際のトラブルが役立ちました。

得られた成果

 その後、日本に呼び戻されることなく、ミネソタで1年間を過ごしました。

 ミネソタはアメリカの「冷蔵庫」と呼ばれる寒冷地で(アラスカがアメリカの「冷凍庫」)、一年の半年が冬で、マイナス20~マイナス30℃の低気温がザラ。テロで飛行機の移動が長期間禁止されていたので、最寄りの大都市であるシカゴまで陸路で8時間以上掛けて2回行った以外は寒いミネアポリスに籠ざるを得ず、研究や地元での遊びは捗りました。 

 この貴重な一年間で得られた成果としては、下記のようなものが挙げられます。

・研究: 最終的には論文として出版することができました。

・単位: 「また、博士課程として戻ってきてよ」とP教授から言われ、途中から正式に授業を取り、いくつか単位を取得しました。徹夜でレポート作成、などもありましたが。

・英語: 実用的なレベルで話すことができるようになりました。なお、ミネソタ英語は、アメリカの標準英語であるシカゴに地理的に近いことから、癖は少ないです。

・バグフィルター、ポリ乳酸、ナノファイバー: ミネソタで初めて出会ったこれらは、後に自分のテーマとなりました。

・コンソーシアム企業との交流: 3Mやドナルドソンなどのミネソタの企業は、その後も競合として立ちはだかったり、顧客になったりしました。

・アメリカや寒冷地での暮らし方に関する知識

・多くの人たちとの出会い

・体重: 渡米当初は食べることができなかったサイズのものを、食べることができるようになりました。

 この1年間の結果、今に繋がっていることも多く、非常に貴重な1年間でした。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次